ナポレオンはかろうじて生還できたが、翌年のライプツッヒでの連合軍の諸国民戦争に敗北し、ヨーロッパ支配があっけなく終わった。その時フランクフルトの領主ダールベルク大公もスイスへ逃亡しなければならなかった。
やがて貴族連合軍がフランスに侵攻してパリに入城しました。皇帝にいたナポレオンはわずか10年の在位で、フランス領ではありますが事実上のイタリアのコルシカ島に近いエルバットに島流しにされた。
こういう時代でフランクフルトではもうすっかり、今までのナポレオン法典の「ユダヤ人の自由」というのは全く元に戻されてしまう時代に突入していきます。その年から王党派の諸国が集まってオーストリアの都ウィーンでウィーン会議が始まりました。
そのウィーン会議の議長を務めたのはメッテルニッヒ外務大臣です。そして、彼自身はこの時にユダヤ人の市民権の保証を求める書簡をフランクフルトに送りました。フランクルとしてはそれを無視しました。
もうナポレオンはいないんということでユダヤ人は元の木阿弥になるという時代でした。このウィーン会議は 踊る会議、会議は踊るという有名な映画にもなりました。そういう風に愛される舞踏会に明け暮れて話がまとまらない時、1815年の3月になってナポレオンがエルバートを脱出したという大変な報告が入った。
参加していた貴族たちは危ない。またナポレオンが復活してるということで急いでウィーン議定書を締結して、元の保守体制の復活を柱とする部員体制を認めて、すぐに解散した。脱出したいナポレオンは3月になるとパリの王宮に入って天下を取り戻して、ブルボン王朝をまた追い出した。
彼はすぐにウィーン会議の王党派諸国に再び戦いを挑んで、このイギリスのウェリントン将軍が率いる王党連合軍です。ベルギーに進軍していきましたが、1815年6月の3日間ベルギーのワーテルの戦いでナポレオンが大敗してしまいました。
今度はパリで退位声明を出すと、7月にイギリス海軍に投降した。ナポレオンはもう二度と戻ると困るということで、アフリカ南西部のセントヘレナ島という今度は完全に隔離される形で島流しにされて、1821年に亡くなってしまった。